その奇妙な店は、都会の路地裏で今日もひっそりと営業している。
店の前に置かれた小さな看板にはこう書かれている……【命の買い取り販売承ります】と。
生命屋(いのちや)――――。
ある夜、男がおぼつかない足取りで繁華街を歩いていた。焦点は定まっていない様子だ。
男の名は袴田悠介(はかまだゆうすけ)。
袴田は酒で酔いふらついているのではなかった。
昨年結婚したばかりの妻が余命三ヶ月の宣告を受けた。そのショックのあまり放心していたのだ。
ちなみに袴田の妻はまだこのことを知らない。
長く続く体調不良で検査入院した結果がそれだった。
「ああ……何で美香が……」
そう力無く呟きながら、意図せず人気のない路地へ迷い込んでいく。
「ん……?」
そこで袴田の目にある看板が映った。それは――生命屋の看板だった。
謳い文句に目が釘付けになり、吸い込まれるように店へと足を進めた。
普段なら絶対に近づくことは無いだろう怪しげな店。古びた建物で、特に目立つ装飾はなく、人気も感じられない。
ここが店であると示しているのはこの看板のみである。
「命の販売……」
袴田は躊躇いながらもドアノブに手を掛け、少し錆びた扉を引き開けた。
ドアベルがカランカランと音を立てる。
その音は、袴田が妻とよく行く喫茶店を想像させた。
「いらっしゃいまっせ」
袴田を迎えたのは、口元にちょび髭を生やした初老の男。タキシードを着飾りダンディズムを醸し出している。
店内には部屋を仕切るカウンターと奥の部屋に続く扉以外何もなかった。
「こ、こんにちは……。命の販売って看板を見たんですけど……」
命の売買など俄に信じ難いが、もしかしたら……と、藁にもすがる思いが袴田を突き動かす。
袴田は恐る恐る店員と思われる男に話し掛けた。すると男は待ってましたと言わんばかりに、にっこりと微笑んだ。
「ありがとうございまっす! ご要望は命の購入ですね。それでは早速説明させていただきまっす。よーく聞いてくださいね。ここで取り扱っているのは人間の寿命です……」
まだ購入要望とは伝えていないにも関わらず軽快に話し出す男。販売価格の記載されたプレートを出し説明を続ける。
販売価格は寿命一年につき一千万円。値引き交渉は不可で、まとめ買いなどによる割引サービスも一切していないという。
なお、買い取り価格は寿命一年につき十万円。
販売価格は買い取り価格の百倍、さらに返品も不可だというから怪しさ満点である。
しかし袴田の心の中は、そんな胡散臭さよりも妻を助けられるかもしれないという希望が勝っていた。
「寿命一年につき一千万円……」
普通のサラリーマンである袴田には高すぎる値段であった。住宅取得資金としてコツコツ溜めた貯金も三百万円しかない。
袴田が頭を抱えていると、男が腕を組みながら顔を覗き込み首を傾げた。
「さて何年がご希望で……とその前に、お客さまっ、何か悩み事でもお有りですか? 顔色が良くありまっせんねぇ。私で良ければ話をお聞きしまっしょう」
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